第2話

「大家さん、だったんですね……」
葵はいそいそと帰る準備をしていた手をピタリと止める。
すぐに恥ずかしい勘違いをしていたと気付いて、頬を染めた。

(や、やだ、私ったら……)
お爺さんは、葵を女性として誘ったのではなく、大家として営業をしていただけらしい。チラリと自分の姿を見て、より葵の羞恥心は煽られる。

(うわぁもうっ恥ずかしい、当たり前じゃない)
化粧もせず、部屋着にジャージ姿だ。今の自分に声をかけてくる人なんていないだろうと、今日思ったばかりだというのに。
自意識過剰な勘違いに、本当に顔から火が出てしまいそうだった。

(お爺さんもごめんなさい)
お爺さんを勝手に変態扱いしてしまって、申し訳ない気持ちにもなる。
己の姿を見てからものを言えと、少し前の自分に言ってやりたい。

「お嬢さん、大丈夫かい? 顔が赤いようだけど」

「だ、大丈夫です! すみません、本当に、もうすみません」
何度も謝罪する葵に、お爺さんは不思議そうな顔を見せたが、もうこれ以上は触れないで欲しい。
馬鹿な女には、二度とその類の思い込みはやめろと、後でよく聞かせておくから。
一応納得してくれたらしいお爺さんは、鞄の中を覗いて「良かった。あった」と、チラシを一枚取り出した。

「ここなんだけどね。最寄駅までは、歩いて二十分ほどかかってしまうけど、家は広いんだ。見てもらえないかな」

「あ、はい。ありがとうございます」
そのチラシは、先ほどまで葵が持っていたような無機質な情報誌ではない。
可愛い花のイラスト付き、そして温もりを感じさせる字体で紹介文が書かれている。

「……え!?」
その文章に目を通していたが、視線は止まる。内容に衝撃を受けて、それ以降に目が通らないのだ。

(や、家賃……完全無料? どういうこと)
それだけではなく、水道光熱費まで家主負担と書かれているではないか。
トドメだとばかりに、大きな赤字で書かれたそれを葵は読み上げる。

「無職、ひきこもり大歓迎のハウス……シェア? 家賃無料って……敷金礼金無料の間違いじゃなくてですか?」

「いやいや、家賃が無料だよ」

「最初の一ヶ月とか、二ヶ月とか?」

「ここに住んでる間ずっとだねぇ」
家賃も水道光熱費も完全無料なんて、向こうに何も儲けがないではないか。
基本的に、うまい話には何か裏があるのが、世の道理である。
葵が沈黙すると、お爺さんは眉を下げて、声を落とした。

「入居してくれないかい? さっき少し聞こえたけど、仕事も探してるんだろう? 水道光熱費も要らないから、自分の食べる分だけ、自分でしてくれたらいいよ」

「いえ……その、すみません。あまりに良いお話過ぎて、怖くて」
思ったまま正直に伝えれば、お爺さんは意外な返答だったのか、目を丸くして反覆する。

「怖い?」

「えっと、はい。その、確かに私にとっては徳ばかりですけど、お爺さんにとって利点が何も無くて……」
家賃無料以外のどこかで、利益を得ようとしているはずで。そしてその利益は葵にとって大損害になる可能性があるからだ。
無職で詐欺に遭いでもすれば、対応にひどく困窮することだろう。
しばらくの間、何かを考えるように小首を傾げていたお爺さんは、辿り着いた答えに何度も頷いた。

「そうか、そうか。なるほど、なるほど。だから、これまで入居希望者がいなかったんだねぇ」
納得だと、晴れやかな表情を浮かべたお爺さんは、ずずっとコーヒーを口にする。

「お金が、欲しいわけじゃなくてね。昔はよく働いたから、老後を過ごすには十分な貯えもある。お嬢さんを騙して、どうこうするつもりはないんだ」

「あ……いえ、そんなつもりじゃ」
確かにそれを危惧していたのだが、真正面から言われると、どうにも居心地が悪くなる。

「タダだと嬉しいだろうと思って、そうしたんだけど。それがいけなかったんだね。なるほど、なるほど」
ははっと可笑しそうに笑ってから、お爺さんの利点を話してくれた。

「そうだねぇ。わたしの利点といえば、孫と一緒に暮らして欲しいからだよ」

「え? お孫さん、ですか」

「うん、うん。高校生の可愛い孫だよ。学校へ行かず、家からあまり出なくてね。わたしが一緒にいられたら良かったけど、病院へ行かなくちゃならないから」
お爺さんはゆったりとした穏やかな口調だが、話す内容はしっかりしている。元気そうに見えるが、どこか身体が悪いのかと聞けば、お爺さんはゆっくりと首を振る。

「いやいや、今すぐどうこうの話ではないんだ。ただ見ての通り、もう歳だからね」
お爺さんは入退院を繰り返しているらしく、その間、一人になる孫が心配で、同居人を探しているそうだ。

「孫はね、とっても良い子なんだよ。少しそれが伝わりにくいんだけどね」
孫は不登校になってから家を出なくなり、以前よりも会話をしなくなったらしい。

「今は少し、心が疲れてしまったんだねぇ」
〈心が疲れる〉その言葉は、葵の中にも深くまで落ちていった。

「……住居提供の対価は、お孫さんのお世話ということですか?」

「いやいや、家では好きに過ごしてくれたらいいよ。自分の家になるんだから。孫も身の回りのことは全部自分でやる子だから」
では何故わざわざハウスシェアなんてと、また葵の頭に疑問符が浮かんだ時、お爺さんは残っていたコーヒーを飲み干した。

「特別な会話は無くても、誰かが同じ家で生活をしていると安心なんだよ。しんどい時に、一人きりでいるのは心に良くないからねぇ」
お爺さんも昔、一人きりで暮らしていた頃、体調を崩してしまってひどく心細い思いをしたそうだ。
「一人でいるのと孤独なのは違うから」そう言って、お爺さんは眉を下げて笑う。

「孫の他に、二人の入居者がいるけども、どうせならたくさんいた方がいいと思ってね」
それに利点はもう一つあるのだと、お爺さんは告げた。

「お金に困ってる若い子が、年寄りが持て余している部屋で助かるなら、嬉しいだろう?」
微笑んだお爺さんの言葉の節々から、どこか愛情深さを感じる。
お爺さんの話し方とか、雰囲気だとか、柔らかなそれが、どうしても悪い人には見えない。

「無理にとは言わないけど、来てくれたら嬉しいよ」
もう一度お誘いを受けて、葵が考えている間、お爺さんは急かすこともなく葵の返事を待っていた。

「……お爺さん」
ゆったりとしたお爺さんの喋り方が、心地良い。もともと祖父母に育てられた葵は、生粋のおじいちゃんっ子で、おばあちゃんっ子なのだ。
今は亡き祖父とお爺さんの雰囲気が似ていてるからか、先ほどから話していてずっと胸がきゅんきゅんしている。
どうせ近々、引越しをしなくてはいけなかったのだ。
これで、騙されたのなら仕方ない。それからのことは騙された後で、考えることにしよう。

「入居、します。よろしくお願いします」
葵は膝の上に両手を揃えて、深く頭を下げる。

(こんなに、有り難い話ある? 神さま、ありがとう)
会社をクビになった時は、この世に神なんていねぇと、恨みもしたが。
捨てる神あれば拾う神ありとは、よく言ったものだ。
顔を上げれば、目を細めて喜ぶお爺さんがいて、つい葵もその笑顔につられてしまう。
葵を拾った神さまは、ずいぶんと親近感の湧く愛らしい神さまであるようだ。
こうして葵は、ひきこもりが集まるハウスシェア生活への一歩を踏み出した――。
次の話に進む。
